部屋が汚い

好きな食べ物がカレーとハンバーグなので、多分僕は小学生です。小学生の頃から部屋の片付けは苦手でした。

2020の目標“計画的に生きること”と思いきや

あけましておめでとうございます。

 

 年末になるとその年を振りかって、年始になるとその年の目標を決める。これは僕のみならず日本人、いや多分アメリカ人もロシア人もジンバブエ人も、みんなの恒例行事だと思う。

  そして、目標を立てても往々にして達成できない。これも恒例行事だと思う。

 

僕の去年の目標は”計画的に生きること”だった。

 

 例えばダイエットだとか仕事だとかライフスタイルだとか、そういったものを計画してそれの通りに生きていく。

 まさしくAI。僕の去年の目標は、計画をただただこなすだけのAIになることだったといっても過言ではない。レプリカントを作り出したネクサス社も驚きのAI。計画遂行AIマン。I am AI.

 

 感情のない、ただひたすらに計画に沿って行動するAIになることを目指していたのだけれど、当然そんなことは出来なかった。

 

 元来怠惰な人間である僕が、計画的に生きることなど出来なかった。怠惰なだけではない。七つの大罪全てを背負った罪の権化。それが俺。I am 罪マン.

 

 それを踏まえて、僕の今年の目標は

 

“計画的に生きることが失敗することを計画する”

 

 というものに決定した。

 

 

 

 

 

しかしここで一つの問題が生じる。

 

 計画的に生きることが出来なかった人間が、その計画が失敗することを計画できるのかどうか。

 雁字搦めである。龐統も驚きの連環の計である。今の僕はまさに、船を鎖で止めて動けなくなった曹操と一緒である。

 

 どうすればいいのだろうか。雁字搦めで止まったままではいけない。そう思い立った僕は、また改めて新しく目標を立てた。

 

”計画的に生きることが失敗することを計画し、それが失敗することを計画する”

 

 

 

 

 

 

果たして、計画的に生きることが出来ず、その計画が失敗することを計画できない人間が、その計画が失敗することを計画できるだろうか?

 出来るはずがない。だから僕はまた、保険に保険をかけた2020年の目標を立てた。

 

 

 

 

 

 

 

”計画的に生きることが失敗することを計画し、それが失敗することを計画したものが失敗することを計画する”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皆様もお気づきだろう。これが所謂無限ループ、永久機関というやつだ。

 今だ誰も発明しえなかった永久機関を、2020年の目標を決めるという一つの行為だけで作り出した僕は、ノーベル賞を受賞してもいいはずだ。

 

こんなくだらないことでノーベル賞が得られるだろうか。

 無理に違いない。まず永久機関でもなんでもない。ただただ計画的に生きることができない怠惰な猿の妄言でしかないからだ。

 

僕の今の計画性のなさ。それはきっと、どこぞのグレタさんと同等ともいえるだろう。

 

なので、2020年の目標は、”適度に計画を立てて適度にアドリブで生きること”に決まりましたことを、ここで表明致します。

 

2020年もよろしくお願いします。

小説を書いています。そして今酔っ払っています。

酔っているときにSNSを開くのは危ないよ、という話はよく聞く。というか僕自身もそう思うし、何度もそういった痛い経験をしてきている。

 

にも関わらずこうしてブログを書いています。反省しませんね、人間というものは。いやまあ反省して身を改め行動を改める方々もいるので人間と一つの括りにしてしまうのも悪いのでしょうが。

 

今僕は、酒を飲みながら煙草を吸いながら文章を書いています。飲んでいるお酒はもちろんストロング系のコスパが良い奴。今でこそ煙草はアメスピを吸っていますが、もしかしたらわかばやエコーのようなより安いものに移行するかもしれません。なんとも親不孝者ですね。

 

先日、小説家になろうの方で『モリタ』というタイトルの短編小説を投稿しました。今まで小説を書こう書こうと思いながらも完結せずにいた僕にとっては、世間的に見たら大変小さいながらも僕にとっては大きな一歩だったと思います。

 

僕はどうにも衝動で動いてしまうタイプらしく、長い時間を要するものが苦手なのです。なので、あえて短めの小説として投稿しました。そして衝動で動くタイプなので、誤字脱字はもちろん、表現の矛盾などもあります。そこは性格の問題としてご了承いただきたいものです。あとで直します。

 

さて、『モリタ』という朝井リョウさんからの影響をがっつり受けた、『桐島、部活やめるってよ』のパクリ小説みたいなものを恥ずかしながら投稿した僕ですが、今度は少し長めのものを書こうかなと思っています。その全貌については、僕の気が許したらですが、いつか分かるのではないかと。

 

さっきまで、その小説の冒頭部分を書いていました。せっかくなら、ばばっと書いて見せたいものですが、大変に遅筆なので、いつ終わるか分かりません。そのため、さっきまで書いていた冒頭部分をこちらにコピーアンドペーストで載せようかなと思います。もし興味が沸いたら、なろうの方でも追って頂けると嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

1

 

子どもが出来たときに、親というのは子どもの名前に意味を込めるらしい。

「実りのある人生になりますように」

両親は私の「実乃莉」という名前にこういった意味を込めたそうだ。この話を聞いたのは確か小学生とか中学生くらいの時だっただろうか。

私は、自分の名前が嫌いだ。

「実りがある人生になりますように」

あまりにもプレッシャーすぎる。母親が私に名前の由来を説明したときには「なりますようにっていう意味を込めたのよ」なんて言っていたが、本心ではきっと「実りのある人生を送りなさい、そういう人生を送らないと貴女を生んだ私たちが恥ずかしいわ」と思っていたに違いない。

だから私は、自分の名前が嫌いだ。

 

疲れた体に鞭を打って、店内の締め作業が全てきちんと終わっているのかどうかを確認する。この前はエアコンを切り忘れて、店長にしこたま叱られた。店長自身はいつもダラダラと漫画を読んで、締め作業を私に放り投げるくせに。

さっきエアコンは切ったが、念のためもう一度確認する。といっても、店内の温度からして切れているのは分かっているのだけれど。

私にとって勝負の年である今年も、もう春が終わってしまった。エアコンを切って五分も経つと、室内に熱気が篭る。

「さ、帰ろ」

誰もいない店内に、私の声が消えていく。

 

大学を卒業してから三年、私は未だに自分が納得する成果を出せずにいた。フリーターとして漫画喫茶で働きながら、カメラマンとして成功を収めるために必死に過ごしてきた今までは、自分でいうのも変な話だが血の滲む様な努力をしてきた。

また過去を振り返っている。

「僕は今この瞬間をカメラに収めたいのかもなー」

大学生のとき、同じ写真サークルに所属していた同級生の台詞を思い出す。彼はいつも今と未来しか見ていなかったような気がする。

いつも公募の賞レースで彼は私の上をいっていた。ネットで選考結果を見るとき、いつも最初に目に入るのは彼の名前だった。

また過去を振り返っている。

今までのことというのはどうしてこうも付きまとってくるのだろうか。それはまるでイエスが背負った十字架のように、私の背中に体重を掛けてくる。

「実りがある人生になりますように」

母親が私に告げた言葉が、また頭の中で繰り返される。

 

駅前にあるバイト先の漫画喫茶から出ると、これから全力を出して活動を始める太陽が準備運動を始めていた。空は白んできていて、町は淡い青色に染められてきている。

初夏の明け方というのは過ごしやすい。しかし私にとっては、もうタイムリミットが迫ってきていることを示す。昔の私だったらこの過ごしやすい明け方に、すっきりとした気持ちで写真を撮っていただろうか。あるいは成功している私だったら。

一応気分転換に、ポケットからスマホを取り出して何枚か写真を撮ってみる。白んできた空、駅前の往来、シャッターの閉まった雑貨屋。悲しいことに、どれを撮っても私の心はすっきりとしない。夏が迫ってきていることを示す、少し湿気を含んだ空気だけが意識に残る。

昔の私だったら、「今この瞬間をカメラに収めること」を楽しめただろうか。あるいは成功した私だったら。

最近は頭の中でこんな思考がぐるぐると巡っている。そしてぐるぐると巡り、結局出口を見つけないままいると、住んでいるボロアパートに辿り着いていた。

私が住んでいるのは101号室。掛かっている表札は木製で、中途半端なサイズに割られている。残された方には「TAKAHASHI」とお洒落な筆記体で書かれている。私の苗字だ。

玄関を開けて目に入るのは、床に散らばった書類たちだ。その数は私が持っている靴の数を優に超している。

はあ、と溜息が出る。書類を纏める余裕が無くなってしまったのはいつからだろうか。税金を納める余裕がなくなったのは、年金を支払う余裕がなくなったのは。

履いていた靴を脱ぎ捨て、寝るための準備をてきぱきと進める。歯を磨きながら服を脱いで洗濯籠に放り込んだ。洗濯籠から溢れてきた自分の洋服やら下着やらを見て、そういえば最近洗濯してないなーと思い出す。

ユニットバスの狭いシャワールームでシャワーを浴びながら、色々と思い出す。

カメラマンを目指すといって両親と喧嘩をした日、期待を胸に住んだ今のアパート、自分の名前の漢字が入っているからと縁起を込めて撮ったジャスミンの花、スマホの画面で見る落選の知らせ、いつからか嫌いになってしまったジャスミン茶、「実りがある人生になりますように」、「僕は今この瞬間をカメラに収めたいのかもなー」。

全てシャワーから流れ出るお湯と一緒に流れてしまえばいいのに。カメラマンを目指そうなんて言った私の過去も一緒に、流れてしまえばいいのに。

汚れの溜まった髪の毛を洗い流しながら、私は泣きそうになっていた。

 

 

 

 

 

続きはまたいつか。

 

深夜に失礼しました。それでは、おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今度時間を作ってまたくだらないブログ記事を書きます。少々お持ちくださいませ。

「御堂筋くん 脱皮」

御堂筋とは…

「御堂筋(みどうすじ)は、大阪府大阪市の中心部を南北に縦断する街路。国道25号および国道176号の各一部に指定されている。現代の大阪市における南北幹線の基軸である。」

 

みなさんは御堂筋という言葉を聞いたとき、どんな印象を思い浮かべるでしょうか。

 

特に何の印象もない…何の感情も浮かばない…心に波も風も立たず、ただひたすらに平静なる海のような心持ちでしかない...御堂筋のことを考えるくらいなら、手の皺の数を数えているほうがマシだと思うかもしれない。

 

しかし、一度で良いので、「御堂筋」という言葉をじっくりと味わって欲しい。御堂筋という言葉にゆっくりと目を走らせ、誰か良い声を持つ人に読んでもらい、それを耳にしっかりと馴染ませて欲しい。

 

するとどうだろう。

 

エロくないすか?御堂筋。

 

御堂筋という言葉をゆっくりと味わってみると、なんとも不思議なエロスを感じ取れるのでは?

 

言語化するのが難しいエロスではあるのだが、表すのであれば、「健全で純粋な、まるで爽やかな夏の朝のようなエロス」ではなく、「珍しく晴れた梅雨時の、しかしまだ湿り気のある空気を残した夕方17時頃の団地4階角部屋のようなエロス」とでもなるだろうか。

 

ということで、なぜ御堂筋という言葉からエロスを感じとってしまうのかを考察していこうと思います。

 

「御堂筋」は大きく3つの部分に分けることが出来る。

御堂筋という言葉は、3つの部分に分けることが出来、それぞれにエロスを醸しだすための意味が込められていると僕は考えている。

 

幼く拙い、しかし性に目覚めてきた少女のような「み」

まずは「御」の部分だ。いや、「み」の部分といったほうが良い。「み」という言葉がまずそもエロいというか、エロいといっても少し拙い、中学生的エロさがあると考えている。

 

その理由は主に二つ。「響き」と「造形」である。

 

まず響きの側面について考えよう。「み」という言葉は、「mi」で構成されている。

 

そう、「み」には「M」が含まれている。あ、SMのMですね。ちなみに僕はドMです、ご了承ください。

 

次に造形について考えてみよう。「み」という文字を見たときにまず目に付くのは「左下に位置する丸い部分」だろう。この左下の部分から、みなさんはどんな意味を汲み取るだろうか。恐らく人それぞれではあるのだろうが、やはりこの丸みから僕は「女性的な雰囲気」を感じ取ってしまう。

 

肉感的な表現を担う「筋」

「み」の部分ももちろんエロいのだが、「筋」の部分がエロいのは言うまでもあるまい。

 

筋…なぜ筋という言葉をエロく感じてしまうのだろうか。思うに、筋はやはり体の部位を表すことが多いからではないだろうか。「筋」と書くと堅苦しい、学術的な言葉のように写ってしまうが、「すじ」と書くとどうだろう。あまりにも官能的、官能的すぎる。

 

そしてなにより、すじで思い浮かぶ言葉といえば「裏すじ」だ。ちなみに裏すじを責められるのは苦手です、ご了承ください。

 

「み」と「すじ」に味わい深さを足す「堂」

さて、正直言えば御堂筋という言葉においてエロいのは「み」と「すじ」の部分だ。しかし、「みすじ」ではあまりエロくはない。これは確かだ。何かが足りない。「みすじ」では、エロという側面から考えた場合、濃厚さが足りない。低脂肪乳のような、薄っぺらい味になってしまう。

 

ここでスパイスのように効いてくるのが「堂」の部分である。「みすじ」だけでは力強さに欠けるが、そこに「堂」が加わることで、人生の酸いも甘いも味わってきたかのような人間的味わい深さが生まれる。

 

こういった理由から「御堂筋」、いや、「み堂すじ」はエロいのだと考える。

 

「御堂筋くん 脱皮」

みなさんは弱虫ペダルという漫画、アニメを見たことがあるだろうか。僕は見たこと無いです。

 

この作品の中で、「御堂筋」という苗字を持つキャラクターが出てくる。

 

ぜひみなさん、「御堂筋くん」という言葉をGoogleで検索をかけて欲しい。

 

すると、サジェストキーワードに「御堂筋くん 脱皮」という検索ワードが出てくる。

 

御堂筋くん 脱皮

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いやもともと包茎だったんかい。

猫語、三選。

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人間の言葉の中で一番難解と言われているのは日本語ですが、動物の言葉で一番難解なのは「猫語」だとのこと。

 

東京農業大学農学部バイオセラピー学科の太田光明教授によると、猫語の全容解明には100年近くが必要だとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあそんな猫語なんですが、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕最近、猫語を話すようになったんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ということで、最近話すようになった猫語を三つ選んでみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニャーン

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この猫語は、僕が驚いたときに出る猫語です。トランプのゲームをしていて、良いカードが出ないときとか負けたときとかに出ます。ニャーンって感じで。

 

あと、逆に嬉しくて驚いたときにもこの猫語が出ます。ゲームに勝ったときとかにも言います、というか鳴きます、ニャーンって。

 

ニャーン

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この猫語は、僕が夜突然恥ずかしかったことを思い出したときに出るものです。

 

よくあるじゃないですか、夜突然あった嫌なことを思い出すやつ。僕の場合は、大概恋愛関連ですが。

 

そうなった時に出ます、ニャーンって。

 

ニャーン

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この猫語は、僕がムラムラしたときに出るものです。

 

発情の合図です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニャーンって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

猫語は難しい

僕がよく使っている猫語を三つ選んでみたわけですが、全く違いが分からないですよね。

 

猫語は難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのため、僕の大学の外国語学部に、猫語学科を作って欲しいなと思っています。

カレー味のうんことうんこ味のカレー、食べるならどっちがいい?この議題に一つの答えを提示します。

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僕の大好きな「ポニピリか」さんのカレー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カレー味のうんことうんこ味のカレー、食べるならどっちがいい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幼い頃、こういった他愛の無い議論をしたことがあるのではないだろうか。

 

しかし、「他愛の無い議論である」と切り捨てるには勿体無い、なんとも深みのある議題だと僕は考えている。

 

そのため今日、僕はこの深淵のような議題に対して、一大学生ながら一石を投じようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず何故こんな話がされるのか?それは見た目が似ているから

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「うんこ」といえばこの人

この議題が、「カレーとうんこの見た目の類似性」から来ているのは明らかだろう。

 

そう、我々人類にとって、カレーとうんこを見た目だけで見分けるのはとても難しいことなのだ。

 

つまり、見た目においては「カレー=うんこ」という方程式が成り立つ。

 

では、その他の要因はどうなのだろうか

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「見た目」というファクターでは「カレー=うんこ」となったが、他のファクターではどうなのだろうか。

 

「食べ物」として物事を捉える場合、ファクターは「味」「臭い」「食感」などを考えればいいだろう。

 

カレーとうんこを「味」で考える

ではまず一つ目のファクターである「味」の側面からカレーとうんこを考えてみよう。

 

カレーの味だが、これに関しては言うまでも無いはずだ。辛いか辛くないかは別として、スパイスの効いている、食欲を駆り立てる味だ。食べても食べてもまた食べたくなる味、カレーの味はそんなものだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では次にうんこの味を考えよう。しかしうんこの味を考える前に一つのことを定義したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うんこが「生」なのか「加熱されているのか」どうかである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カレーは加熱調理されたものであるから、比較としては「加熱されたうんこ」を引き合いに出すべきだろう。

 

しかし、難しいのが「加熱調理されたうんこを食べた人が圧倒的に少ない」という点である。生うんこを食べたことがある人も相当少ないが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

というかまず、「うんこを加熱する」という発想なんだよ。怖すぎるだろ。自分の体から出たものを加熱する、しかもめっちゃ汚いものを。頭がおかしすぎる。そんな人間が存在して良いわけがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな人間がもし存在してしまったら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは世界の終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

End

 of

  the

   world

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ世界に終わって欲しくはないので、今回は残念ながら加熱されたうんこではなく、生のうんこで比較してみようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

随分と話が逸れてしまったが、生のうんこの味はどんな味なのだろうか。

 

その味はどうやら「苦い」らしい。

 

ちなみにうんこが苦いのは生理学的にも立証されている。詳しいシステムは以下のようになる。

 

消化酵素である胆汁と言うものが、肝臓で作られ胆嚢から分泌されます。

この胆汁はものすごく苦いと言われています。

 

小腸を通り終わったときには食べた食物はもう栄養分が抜き取られ、さらに大腸で水分が抜き取られ、このときには食べた物は食べ物の味すらしないそうです。

 

胆汁の苦味を帯びた食物繊維のカスや菌類だけとなっているそうです。

このゆえに大便は苦いそうです。

出典:Yahoo!知恵袋より

 

こういった点から、カレーとうんこの味は全く異なるということが分かった。

 

カレーとうんこを「臭い」で考える

では次に、カレーとうんこを「臭い」の側面から比較してみよう。

 

カレーの臭い、いや、あんなに高尚な食べ物が嗅覚を刺激することを「臭い」なんて言ってしまっては罰当たりだ、カレーに関しては「香り」と表現しよう。

 

カレーの香りは言うまでもない、いや、嗅ぐまでもない。スパイスをふんだんに使っている本場のカレーであれば、使っているスパイスにもよるがかなり独特な香りがする。

 

しかしそれは決して、決して「臭い」や「生理的に受け付けない」といったものではないだろう。

 

日本のものでも同様で、百人中百人が「これカレーだわ」と分かる香りをしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、うんこの臭いはどうだろう。

 

それはもう筆舌しがたい臭いだ。臭い。臭すぎる。どんな美女がしたうんこでも臭い。でも僕の哲学では、美女はうんこをしないとなっているので、美女のうんこは存在しないものとする。

 

うんこの臭いは、百人中百人が「これうんこだわ」と分かる臭いをしている。

 

うんこの臭いは、うんこの臭い以外の何者でもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまり、カレーとうんこの臭いは全く異なるということが分かった。

 

カレーとうんこを「食感」で考える

最後に、カレーとうんこを「食感」の側面から考えよう。

 

「味」や「臭い」に関しては確認するまでもないファクターであったが、「食感」に関してはかなり難しい部分だろう。

 

まずカレーの食感であるが、通常のものであればどろどろした食感であるし、スープカレーであればさらさらとしている、ドライカレーなんかはかなりしっかりとした食感を持っている。

 

次にうんこの食感であるが、以下のものはあくまでも推測でしかない。だってうんこ食ったことねえもん。下痢気味のうんこであればどろどろ~さらさらのような食感だろうし、便秘から生まれたうんこであれば比較的固めの、しっかりとした食感だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまり、カレーとうんこの食感は、比較的類似性があるのではないかと考えられる。

 

ご飯との相性

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キーマカレーを家で作れる女性と結婚したい

さて、カレーとうんことの類似点や相違点などを確認したが、それぞれよりイメージしやすいように「カレー」や「うんこ」という単一の概念ではなく、何かと組み合わせた「料理」として捉えてみよう。

 

カレーを使う料理として最も食べられているポピュラーなものは「カレーライス」だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ではうんこを使う料理は?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うんこを使う料理として最も食べられているものとは一体なんだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

というか、うんこを食材や食料として捉えるってなんだ?うんこは食材でも食料でもない、うんこだ。料理でもなんでもない。そのため、うんこを使った料理など存在しない。

 

そのため、今回はカレーに当てはめて、「お米との相性」を確認してみよう。

 

ちなみに今回は、日本で最も食べられていると考えられる「コシヒカリ」を、カレーやうんこと掛け合わせるお米として定義する。

 

カレーとライス

まずはカレーとお米の組み合わせ、「カレーライス」の味を考えてみよう。

 

言うまでもない

 

最高の味だ。カレーライスはその味の良さから、「カレーライス」という概念を確立している。

 

カレーライスの中での味の優劣はあるだろう。しかし、「その他の料理」と優劣を決める必要はない。なぜなら、カレーライスはカレーライスという概念を確立しているからだ。

 

「カレーライスとハンバーグ、食べるならどっちがいい?」なんて聞いてくる奴は愚か者だ。

 

どっちも旨い。

 

うんことライス

では次に、うんことお米の組み合わせ、「うんこライス」の味を考えてみよう。

 

言うまでもない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなものは存在しない。想像も出来ない。そのため、「味」と「臭い」の似ている「ドリアン」で考えてみよう。つまりは「ドリアンライス」である。

 

考えるまでもない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まずい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苦いものとご飯は基本的に合わないし、なによりも臭いがだめだ。うんこの臭いで食欲がそそられるやつがいるだろうか、いや、いない。

 

しかし、「うんこライス」という料理はある意味で唯一無二の存在であり、料理としての概念は確立していると考えられる。

 

うんこライスの中での味の優劣はあるだろうが、その他の料理と比べる必要なない。なぜなら、単一の料理として概念を確立しているからだ。

 

「うんこライスとハンバーグ、食べるならどっちがいい?」なんて聞いてくる奴は愚か者だ。

 

ハンバーグに決まっている。

 

てかまずなんだよ、うんこライスって。

 

「カレー味のうんこ」と「うんこ味のカレー」を考える

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さて、料理としてのカレーとうんこを考えたところで、本題に戻ろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カレー味のうんこ」と「うんこ味のカレー」食べるならどっちが良いのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまで様々なことを列挙してきた。そのため、改めて分かりやすいように五つのファクターを比較した表を見てみよう。

 

       カレー     うんこ

見た目    茶色い     茶色い

 味       美味しい     まずい

  臭い    スパイシー   うんこ臭い

  食感     それぞれ    それぞれ

米との相性  大変よい       悪い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、ここからが本題である。「カレー味のうんこ」と「うんこ味のカレー」を考えてみよう。

 

まずはカレー味のうんこについてだ。

 

見た目や食感はうんこかもしれない。しかし、うんことカレーはそもそも見た目や食感が一緒である。そしてカレー味であるということは、調味料として(うんこに調味料というのも奇妙な話だが)スパイスが使われているということが考えられる。つまり、臭いもカレーに寄ったものだと考えられるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまり、カレー味のうんこは「カレー」である、といえるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では次にうんこ味のカレーについてだ。

 

見た目や食感はカレーかもしれない。しかし、カレーとうんこはそもそも見た目や食感が一緒である。そしてうんこ味であるということは、調味料としてうんこ(調味料としてのうんこ?)が使われていると考えられる。つまり、臭いもうんこに寄ったものだと考えられるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまり、うんこ味のカレーは「うんこ」である、といえるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さんはどっちを選びますか?

さて、「カレー味のうんこ」と「うんこ味のカレー」、みなさんはどちらを選ぶだろうか。

 

ここまで長い考察文を読んできた皆さんであれば、「カレー味のうんこ」を選ぶことと思う。

 

なぜなら、「カレー味のうんこはカレー」だし、「うんこ味のカレーはうんこ」だからだ。

 

全人類にとっての長年の疑問である「カレー味のうんことうんこ味のカレー、食べるならどっちがいい?」というものに対して、一大学生ながらも一石を投じられたのではないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、今日はカレー味のカレーを食べるか。

岸明日香、アート、余白

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岸明日香はアートである」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

というと、何言ってんだこいつついに気が触れたのかというか前から気が触れてるわ表社会に出るなよ、といわれてしまうかもしれない。

 

あるいは、グラドルのような性的なものをアートと表現することで、斜めの視点を持っている俺センス爆アリじゃね?と言いたいだけの人と思われるかもしれない。

 

しかし、そうではない。僕は、真剣に、岸明日香はアートだと思っている。

 

その理由は、岸明日香のようなグラドルと、アートが持つとある共通点による。

 

アートには余白が重要

個人的な見解ではあるが、音楽や文学、そして美術のようなアートには「余白」が重要になる。

 

「余白」という表現で分かりにくい場合は、「隠された真実」「受け手に考えさせる解釈の余地」とでも言えばいいだろうか。

 

では、なぜ「余白」が重要になるのだろうか。それは、「見えているようで見えていない、その奥に隠されている事柄が人の好奇心を刺激するから」だ。

 

今回はまず、「ヨハネス・フェルメール」の描く「地理学者」を例に、アートの余白を確認してみよう。

 

ヨハネス・フェルメールの描く「地理学者」

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皆さんは「ヨハネス・フェルメール」という画家をご存知だろうか。一時期日本でもフェルメール展が開催されたことから、聞いたことはあるだろう。ちなみに、フェルメール展は僕が人生で初めて訪れた美術展です。

 

ヨハネス・フェルメールはオランダのデルフトという地で生まれた、いわゆるバロック期の画家の一人だ。写実的な手法と緻密に計算された空間構成が魅力の画家だが、特に注目すべき点は「光」だろう。その巧みな光の描き方から、「光の魔術師」とも呼ばれている。

 

「地理学者」において「表面的に描かれている」ものは、「地図を制作している男性」だ。

 

しかし、この絵にはいくつもの「余白」や「受け手に考えを委ねる要素」が隠されている。では、それらの部分を確かめてみよう。

 

まず注目したいのが、絵の中で光の当たっている部分だ。

 

この絵において光が当たっているのは三つ、「棚の上の地球儀」、「壁に掛けられた地図」、そして「地図を制作する男性」だ。

 

オランダの栄華を表す二つの要素

棚の上の地球儀と、壁に掛けられた地図。この二つには当時のオランダの栄華を表す意味が込められている。

 

壁に掛けられた地図には「ヨーロッパ」が、そして棚の上の地球儀には南インド洋が描かれており、これは当時オランダが制覇していた地域だ。

 

そして一方で、日本から東側には「未知なる世界」とだけ描かれており、まだオランダが到達していない部分だとも分かる。

 

ここで一度、当時のオランダの状況を確認してみよう。当時のオランダは、小国ながらも「海運力」を武器に、世界の覇権を握っていた。

 

しかし、航海を進めるには、屈強な海の男「だけ」では不可能である。どこへ進むべきなのか、そして今どこにいるのか、そういったことを判断するためには「地理学者」や「天文学者」といった存在が必要不可欠であった。

 

地理学者が当時の航海で持っていた役割、そして地球儀に描かれた「未知の世界」、これを頭に置きながら、絵の中で光の当たっている「男性」に目を目を向けてみよう。

 

地理学者の向いている先には?

「地理学者」というテーマの通り、絵の中の男性の職業は地理学者である。実はこの男性、始めに描かれたときは下を、つまり熱心に書き記した紙(おそらく地図)に目を落としていたと言われている。実際絵に特殊な光を当てて確かめてみると、書き直した跡が確認できる。

 

では、フェルメールは何故書き直したのだろうか。

 

その理由は、「地理学者が外という未知なる世界に目を向けている状態にしたかったから」なのではないか。

 

航海に必要不可欠な地理学者が、絵には具体的には描かれていない外、光の差す窓の外の世界へ目を向けている。

 

これは正に、当時のオランダの「未知なる世界へ進んでいく様」を表しているといえるだろう。

 

「地理学者」への解釈

この絵には、「オランダの栄華」と「未知なる世界へ進んでいくオランダの姿」とを表す意味が込められている。

 

しかしそれらの意味は、決して直接的に描かれているわけではない。フェルメール特有の光の操り方や、取るに足らないような絵のパーツ、そして男性の顔の向きのような部分から「受け手に推測させる余白」を与えてくれている。

 

そう、「オランダの栄華、未知なる世界への一歩」という解釈も、あくまで一つの解釈でしかない。

 

人によっては、「遠く離れた女性を想っている地理学者」という解釈をする人もいるようだ。

 

人の解釈によって意味合いが変わるアート。固定された意味がないからこそ、十人十色の受け取り方ができるからこそ、この「地理学者」という絵は今でも多くの人の心を掴んで離さないのだろう。

 

岸明日香、そしてグラドルが持つ「余白」という概念

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岸明日香

さて、ここからが本題である。

 

「固定された意味が無く、受け手に解釈の自由を与える余白を持つ。」

 

これは、グラドルも持っている特徴だといえるのではないか。

 

グラドルは決して全裸にはならない。水着しろなんにしろ、その真実の姿は布一枚という何とも頼りない、しかし必ず剥がされないもので守られている。

 

そう、グラドルには常に「受け手に解釈の自由を与える余白」があるのだ。

 

グラドルとアートが持つ奇妙な共通点である「余白」。そしてその「余白」こそが、真実の旨みをより引き立ててくれる存在なのではないだろうか。

 

いや、この言い方ではグラドルとアートが≠の関係性になってしまっている。

 

グラドル≠アート

 

ではなく

 

余白という共通点がある限り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グラドル=アート

 

なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてグラドルの中でも僕が一番好きな「岸明日香」もまた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アートなのである。

そうだ、中央アジアへ行こう

中央アジア

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恐らく、多くの日本人は「中央アジア」についてほとんど知識を得ることなく一生を終えるのではないでしょうか。

 

世界史を勉強していた人にとっては比較的馴染み深い地域かもしれませんが、といっても「匈奴とかいたとこ?」とか、「騎馬民族が矢鱈いるところ」みたいな印象しかないかもしれません。

 

というか、世界史勉強していた勢からすると、結構中央アジアって難敵ですよね。馴染み薄い地域だし、似たような民族ばっか出てくるし。

 

そんな中央アジアですが、僕はスキです。

 

そうだ、中央アジアへ行こう

 

まず中央アジアって何?

「てかまず中央アジアってなんだよ」って人のために、すごく大雑把に一言で説明します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~~スタン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はい、以上です。

 

もうちょっと詳しい説明を、人類の叡智の結集である「wikipedia」先生にお願いしてみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが[2]、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタン東トルキスタンの東西に分割している。

 

西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタンキルギスタジキスタントルクメニスタンウズベキスタン5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。

 

東トルキスタン中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタンウイグルスタンともいう。

 

広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップジュンガル盆地チベットモンゴル高原アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む[3]UNESCOトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は、西トルキスタンにあたる「ウズベキスタン」「キルギス」「タジキスタン」「トルクメニスタン」「カザフスタン」の五つに絞って、中央アジアの魅力を語っていこうと思います。

 

その前に、まずざっくりと各国の特徴を纏めようと思います。

 

ウズベキスタン

首都は「タシュケント」。中央アジアの中でも観光において一番人気だと思います

 

領土的にはほとんど砂漠と険しい山しかないのが特徴で、気候も夏場はクソ暑く、冬場はクソ寒いという、しっかりと砂漠らしい気候です。

 

ウズベキスタンが有名なポイントとしては二つあるでしょう。一つ目が「シルクロード」、二つ目が「アラル海」です。

 

10世紀頃まで、歴史的貿易ルートとして有名なシルクロードの中継地として栄えていました。シルクロードとか、かなり有名な歴史用語に関わっている地域なはずなのに、なんでこうも無名な国なんですかね。

 

二つ目のアラル海ですが、こちらはマイナスな意味で有名な話。ソ連支配下にあったとき、環境を無視した過剰な綿花の生産をしたことで、アラル海の面積が「半分に」縮小、環境に大きな問題を与えました。

キルギス

首都「ビシュケク」。他の中央アジア諸国に比べると色々と住みやすいのが特徴。

 

まず、砂漠がないです。気候的にも安定していて、いわゆる地中海性気候ですね。温暖で乾燥していて、似た気候を持つ地域としてはイタリアのローマや、アメリカのサンフランシスコなんかが挙げられます。

 

ただ、国土の40%が標高3000mを超えているのも大きな特徴。黙っていても高山トレーニングが出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やったねたえちゃん!肺活量が増えるよ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タジキスタン

首都は「ドゥシャンベ」。結構歴史の深い地域で、紀元前のころからペルシア帝国の一部として有名だったみたいです。

 

有名なエピソードはタジキスタン内戦」。政府側と反政府勢力間で起きた内戦で、1992年から1997年まで続いたもの。死者数は5万人以上と推定されています。

 

このタジキスタン内戦とか、アフガン侵攻とかがあったからか、~~スタン系の国は危険っていうイメージが染み付いているのかもしれない。

 

こちらもキルギス同様、国土の半分以上が標高3000mなので、生活しているだけで高山トレーニングが出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やったねたえちゃん!肺活量が増えるよ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トルクメニスタン

首都は「アシガバート」です。スイスみたいな永世中立国なのが大きな特徴ですね。

 

国土のほとんどが砂漠なこともあり、やっぱり住むには向かないみたいです。

カザフスタン

首都は「ヌルスルタン」です。なんかローションみたいですね。ちなみに僕は、ギャルがローションまみれになるタイプのAVがスキ。

 

他の中央アジアに比べると秘密主義的なところがあって、結構政府からの検閲が厳しいらしいです。

 

なんで中央アジアが好きなのか

そんな感じで非常にざっくり中央アジアの国を確認したところで、なんで中央アジアが好きなのかを説明してみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰も注目していないからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は大変天邪鬼な性格をしています。どれくらい天邪鬼かというと、タピオカやパンケーキには興味を示さず、その代わりにチャイやナン、パンナコッタみたいな、流行りもクソもないようなものに興味惹かれるくらいです。

 

また、AV女優もたかしょーさんみたいなめちゃくちゃ有名な人よりも、麻里梨香さんとか阿部乃みくさんみたいな、若干マイナーで、詳しくない人からしたら誰それってなるようなAV女優が好きです。

 

さらに、AV自体の内容も、MM号みたいなメジャーな企画ではなく、角オナものに時々どはまりします。ちなみに今一押しの企画は逆ナンもの。これはまあまあメジャーですけどね。

 

まあそれくらい天邪鬼な自分からすると、中央アジアという誰も注目していないような土地はなんとも魅力的なものに思えてくるわけですね。

 

ちなみに真面目な話をすると、歴史的背景が興味深いからです。騎馬民族旧ソ連の面影が見える文化や建築は、結構興味の惹かれるところがありますよね。

 

物価がバカ安い

それと中央アジアの魅力としては、「物価がバカ安い」というのも挙げられますね。

 

ウズベキスタンに移住している人のブログを読む限り、月々5~10万円ほどあれば余裕で生活できるみたいです。

 

分かりやすいところでいうと、東南アジアと同じくらいでしょうか。国によりけりなので安易に比較はできないですけど、少なくとも先進諸国よりかは格段に物価は安いみたいです。

 

人が優しい

中央アジアの魅力としてはこれも挙げられますね。

 

ソ連だった国と聞くと、みんな険しい顔をしていて、フライフェイスと呼ばれている元女性大尉がいて、全員片手にAK-47を、背中にはRPG-7を持っているような印象があるかもしれません。

 

しかしどうやら、中央アジアの人たちはめちゃくちゃフレンドリーな感じらしいです。

 

特にそれが表れるのは宿。ウズベキスタンの宿なんかはかなりホスピタリティ溢れているようです。でもこれに関しては国によりけりなところもありますね。

 

AVが見れない

ただ、良いことばかりでもありません。

中央アジアの国はほとんどがイスラム圏。イスラムというと、結構検閲が厳しいイメージがあるでしょう。

実際問題国によっては、宗教関連、暴力表現のある映像関連の持込が規制されています。

 

ただ一番の問題が、ポルノ関連の規制。持ち込み厳禁です。

 

つまり、麻里梨香さんや阿部乃みくさんみたいな、僕の好きなショートカットで痴女が似合う、イキ方の派手なAV女優作品は見れなくなるでしょう。(一応クラウドで保存して~とか、対策は出来るけど)

 

さらに問題なのが、ネット回線。こちらに関しては国によりけりですが、タジキスタンなんかはほとんどネット環境が整ってなかったり、トルクメニスタンみたいな検閲が厳しいところではネットサーフィンも制限されるでしょう。

 

そのため、僕のお世話になっているpornhubtube8sharevideosなんかは当然見れないでしょう。

 

あまりにもハードな生活になる。それだけは確かです。

食文化が面白い

こちらに関してはマイナスと捉えるかプラスに捉えるか微妙なところです。

 

全体的に共通しているのが「脂っこい」ということ。観光客の多くは胃もたれに悩まされるみたいですね。

 

ただ、羊肉や馬肉みたいな、日本では若干マイナーな肉が中央アジアでは主役になっています。結構面白そうですよね。

 

調べてみた感じだと、ロシアと中国、そしてインドの料理を足して割ったみたいな雰囲気ですね。結構独特だと思います。

 

日本でもウズベク料理として食べられるお店が結構あるみたいなので、興味のあるショートカットの女性が居ましたら連絡ください。

 

中央アジア、いいでしょ

そんな感じで、中央アジアの魅力を非常にざっくりとまとめてみました。

 

実際、ネット環境が整っていれば移住もありかもなーと思ってたり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのためにも、まずは乗馬の練習から始めようかな。