岸明日香、アート、余白
「岸明日香はアートである」
というと、何言ってんだこいつついに気が触れたのかというか前から気が触れてるわ表社会に出るなよ、といわれてしまうかもしれない。
あるいは、グラドルのような性的なものをアートと表現することで、斜めの視点を持っている俺センス爆アリじゃね?と言いたいだけの人と思われるかもしれない。
しかし、そうではない。僕は、真剣に、岸明日香はアートだと思っている。
その理由は、岸明日香のようなグラドルと、アートが持つとある共通点による。
アートには余白が重要
個人的な見解ではあるが、音楽や文学、そして美術のようなアートには「余白」が重要になる。
「余白」という表現で分かりにくい場合は、「隠された真実」や「受け手に考えさせる解釈の余地」とでも言えばいいだろうか。
では、なぜ「余白」が重要になるのだろうか。それは、「見えているようで見えていない、その奥に隠されている事柄が人の好奇心を刺激するから」だ。
今回はまず、「ヨハネス・フェルメール」の描く「地理学者」を例に、アートの余白を確認してみよう。
ヨハネス・フェルメールの描く「地理学者」
皆さんは「ヨハネス・フェルメール」という画家をご存知だろうか。一時期日本でもフェルメール展が開催されたことから、聞いたことはあるだろう。ちなみに、フェルメール展は僕が人生で初めて訪れた美術展です。
ヨハネス・フェルメールはオランダのデルフトという地で生まれた、いわゆるバロック期の画家の一人だ。写実的な手法と緻密に計算された空間構成が魅力の画家だが、特に注目すべき点は「光」だろう。その巧みな光の描き方から、「光の魔術師」とも呼ばれている。
「地理学者」において「表面的に描かれている」ものは、「地図を制作している男性」だ。
しかし、この絵にはいくつもの「余白」や「受け手に考えを委ねる要素」が隠されている。では、それらの部分を確かめてみよう。
まず注目したいのが、絵の中で光の当たっている部分だ。
この絵において光が当たっているのは三つ、「棚の上の地球儀」、「壁に掛けられた地図」、そして「地図を制作する男性」だ。
オランダの栄華を表す二つの要素
棚の上の地球儀と、壁に掛けられた地図。この二つには当時のオランダの栄華を表す意味が込められている。
壁に掛けられた地図には「ヨーロッパ」が、そして棚の上の地球儀には南インド洋が描かれており、これは当時オランダが制覇していた地域だ。
そして一方で、日本から東側には「未知なる世界」とだけ描かれており、まだオランダが到達していない部分だとも分かる。
ここで一度、当時のオランダの状況を確認してみよう。当時のオランダは、小国ながらも「海運力」を武器に、世界の覇権を握っていた。
しかし、航海を進めるには、屈強な海の男「だけ」では不可能である。どこへ進むべきなのか、そして今どこにいるのか、そういったことを判断するためには「地理学者」や「天文学者」といった存在が必要不可欠であった。
地理学者が当時の航海で持っていた役割、そして地球儀に描かれた「未知の世界」、これを頭に置きながら、絵の中で光の当たっている「男性」に目を目を向けてみよう。
地理学者の向いている先には?
「地理学者」というテーマの通り、絵の中の男性の職業は地理学者である。実はこの男性、始めに描かれたときは下を、つまり熱心に書き記した紙(おそらく地図)に目を落としていたと言われている。実際絵に特殊な光を当てて確かめてみると、書き直した跡が確認できる。
では、フェルメールは何故書き直したのだろうか。
その理由は、「地理学者が外という未知なる世界に目を向けている状態にしたかったから」なのではないか。
航海に必要不可欠な地理学者が、絵には具体的には描かれていない外、光の差す窓の外の世界へ目を向けている。
これは正に、当時のオランダの「未知なる世界へ進んでいく様」を表しているといえるだろう。
「地理学者」への解釈
この絵には、「オランダの栄華」と「未知なる世界へ進んでいくオランダの姿」とを表す意味が込められている。
しかしそれらの意味は、決して直接的に描かれているわけではない。フェルメール特有の光の操り方や、取るに足らないような絵のパーツ、そして男性の顔の向きのような部分から「受け手に推測させる余白」を与えてくれている。
そう、「オランダの栄華、未知なる世界への一歩」という解釈も、あくまで一つの解釈でしかない。
人によっては、「遠く離れた女性を想っている地理学者」という解釈をする人もいるようだ。
人の解釈によって意味合いが変わるアート。固定された意味がないからこそ、十人十色の受け取り方ができるからこそ、この「地理学者」という絵は今でも多くの人の心を掴んで離さないのだろう。
岸明日香、そしてグラドルが持つ「余白」という概念
さて、ここからが本題である。
「固定された意味が無く、受け手に解釈の自由を与える余白を持つ。」
これは、グラドルも持っている特徴だといえるのではないか。
グラドルは決して全裸にはならない。水着しろなんにしろ、その真実の姿は布一枚という何とも頼りない、しかし必ず剥がされないもので守られている。
そう、グラドルには常に「受け手に解釈の自由を与える余白」があるのだ。
グラドルとアートが持つ奇妙な共通点である「余白」。そしてその「余白」こそが、真実の旨みをより引き立ててくれる存在なのではないだろうか。
いや、この言い方ではグラドルとアートが≠の関係性になってしまっている。
グラドル≠アート
ではなく
余白という共通点がある限り
グラドル=アート
なのである。
そしてグラドルの中でも僕が一番好きな「岸明日香」もまた
アートなのである。